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ball「常識」についてのお話 ball



 世の中には、誰もが使っていながら、実はよくわからない「言葉」というものがあります。
 その代表は、「常識」という言葉でしょう。
 「常識」というのは、ふつう、「誰もが知っていて当たり前のこと」という意味で使われています。専門的ではない、一般的な知識だといいかえてもいいでしょう。
 しかし、「常識」について考え出すと、不思議なことがたくさん出てきます。

 少し例をあげてみましょう。

 「おまえ、そんなことも知らないのか。なんて、常識のないやつだ」・・・
 「もっと、常識をわきまえなさい」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「そんなこと、あるわけがない。常識に反している」・・・・・・・・・・・・・・・
 「常識的に考えて、これが一番いいでしょう」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「常識からすれば、あなたの言う通りでしょう」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「アメリカでは違うかもしれないが、日本では常識だ」・・・・・・・・・・・・・・
 「この業界では、常識なのだ」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「みなさんには違うかもしれませんが、私にとっては常識です」・・・・・・・
 「昔と違って、今では、もう、常識でしょう」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 は、やはり、誰もが持っている、または持っているべき知識であることがわかります。また、「常識」を持っていることが、社会人として、一人前と認められる条件であることもわかります。
 は、共通の判断の基準として、用いられています。
 しかし、以後は、その「常識」の通用する範囲が限定されています。
 では、「常識」とはいいながらも、個人にしか通用しません。
 では、「常識」が時間とともに変化することを示しています。
 これはいったい、どうしたことでしょう。

 もう少し、掘り下げてみましょう。
 「常識」とは、一般的であって、専門的ではないはずなのですが、その通用する範囲が限定されることもあります。つまり、専門的なこともあるわけです。
 とてもおかしなことだと思いませんか?

 こんな風に考えたらどうでしょう。
 人が判断をするときには、なにか基準や根拠になるものが必要なはずです。それがハッキリしない場合に使うごまかしの言葉が「常識」だ、というものです。

 判断の基準や根拠が明確な場合には、「〜から考えて、こうしたほうがいい」とか「〜だから、こうしなさい」と言えば簡単です。でもこの場合、話し手にとって、面倒な問題が生じてきます。
 判断の基準や根拠について、その正しさを証明しなければならないからです。
 相手から、自分の判断の基準や根拠を批判され、反論された場合、その批判や反論に対し、さらに反論し返さなければなりません。よほどしっかりした基準や根拠がないと、「水掛け論」になってしまいます。

 結局、「常識」という言葉は、相手の批判や反論を封じ込めるための「魔法の呪文」だと考えると、とてもわかりやすいでしょう。
 自分の判断に自信がない人にとって、うってつけの言葉なわけです。

 先ほどの例を見てみましょう。
 どれも、実際にそう言われた場合、反論しにくいのがよくわかります。特に、の例のように、上の立場の人が、下の立場の人に対して発言する場合には、これほど便利な言葉はありません。判断の基準や根拠を、まったく考えなくていいのです。

 上役や上司、親などから、こんな風に言われた経験をお持ちの方も、多いのではないでしょうか。
 そんなとき、その上役や上司、親は、自分の判断に自信がないか、判断の基準や根拠が自分でもよくわからないのです。だから、「常識」という言葉を使うのです。
 上の立場の人が、下の立場の人に対して「常識」という言葉を使ったときは、「ごちゃごちゃ言わずに、言うとおりにしろ」ということなのです。

 「常識」という言葉の機能面はこの程度にして、もう一度、その「意味」を考えてみましょう。

 たとえば、熱烈に恋愛し、お互いにこの人しかいないと確認し合い、結婚にいたった場合を想定してみましょう。
 夫婦になって一緒に暮らすようになると、なにかがしっくりいかなくなります。
 よくはわからないけど、相手が恋人のときとは違うように感じるのです。
 しばらくは、結婚すればそんなこともあるのかな、と考えたりしますが、だんだん気分が落ち着かなくなります。
 やがては、相手のちょっとした行動が気にさわりだし、最初の夫婦ゲンカが始まります。
 結婚されている方のなかには、こんな経験をお持ちの方も、けっこういらっしゃるでしょう。実は、これは非常に典型的な例なのです。

 どんなに強く愛し合っていても、相手を完全に理解しているわけではありません。一緒に暮らしてみなければわからないことというのは、意外と多いものです。
 どんなカップルでも、結婚するまでは、それぞれ別の家庭に属しています。そして、その家庭ごとに、別々の「常識」があるわけです。
 それぞれの家庭ごとの「常識」を、本人はほとんど意識していません。
 意識しなくても、自然と身についています。そのせいで、相手の「常識」が、正体の分からない「違和感」として感じられるわけです。
 いつかは、蓄積された違和感が爆発し、ケンカとなります。
 最初の夫婦ゲンカというのは、両家の「常識」と「常識」のぶつかり合いだと考えればいいでしょう。

 激しい言い争いのなかで、初めて、お互いの「常識」の違いに気づかされます。
 そうして、無意識的に「常識」としていた自分自身の行動や考え方を意識化し、お互いに比較できるようになります。
 ここまでくれば、相互理解が深まって、前よりもしっくりした関係になることができるでしょう。
 それだけではありません。自分自身が無意識的に「常識」だとしていたものまで相対化でき、人間として成長することにも、つながってくるわけです。

 夫婦ゲンカをしない夫婦は、お互いを本当には理解し合えないでしょう。
 そういう夫婦は薄っぺらな関係を維持しているだけです。ちょっとしたことで、崩壊してしまいます。
 ケンカしなくても、お互いを理解し合える夫婦というのは、非常にまれなケースだと考えてもいいでしょう。

 だいぶ脱線してしまいました。

 さて、「常識」の意味ですが、この例からもわかるように、あってないようなものです。一般的なはずなのに、個人個人によって異なっています。こうなると、もう、「禅問答」の世界です。
 はてさて、困ったものですね。

 こう考えたらどうでしょう。

「常識」とは、その人が主観的に、言いかえれば、自分勝手に「常識」だと思い込んでいるすべてのこと。

 これで、すべてのケースについて、なんとか説明がつきます。ちょっとずるいような気もしますが、根拠がないわけではありません。
 誰かがなにかの判断をするとき、必ず主観が入ります。判断という行為には、主観がつきものなのです。いいかえれば、判断の主体は、いつでも主観なわけです。

「常識」とはなにかを判断するのも、もちろん主観です。「常識」というものが、それだけで客観的に存在するのではなくて、主観を通して、初めてその存在が成立すると考えてもいいでしょう。

 少し、哲学めいてきました。実例を挙げることにしよう。

 たとえば、目の前にリンゴが一つあるとしましょう。
 さわってみて、においを確かめて、いよいよリンゴだと確信したとします。
 ほかの人を連れてきて、ここにリンゴがあるということを確認させることは簡単です。やはり同じように、見て、さわって、においをかいで確かめてもらえばいいわけです。
 それは、何人連れてきても同じです。みんなで確認できます。つまり、客観的なのです。

 「常識」は、確認できるでしょうか。
 たとえば生活環境や成育環境の異なる2人の人に、「常識」だと思うことを、別々の場所で、それぞれ思いつく限り書き出してもらいましょう。
 もう、これ以上はないというところまで書いてもらって、後でそれを比較します。

 どういう結果になるかは、簡単に想像できるのではないでしょうか。
 ある程度は、その2人に共通の「常識」があるでしょう。でも、かなりの部分は、違ってくるはずです。

 テレビ番組や結婚式の余興で、「相性テスト」というものがあります。
 夫婦や恋人などのカップルを連れてきて、しきりのついた机に座らせ、2人が話をしたり顔を見たりできないようにして、共通の質問をするものです。
 答えは、それぞれ別の紙に書いてもらいます。それを突き合わせて、どれだけ同じ答えを書いているかによって、相性をテストするというものです。
 たいていは、ちぐはぐな回答になり、まわりの人や視聴者を喜ばせることになります。
 長年連れ添った夫婦でも、なかなか同じ回答にはならないものです。
 もし、「常識」いう言葉を質問のなかに入れれば、どんな状態になるかは、想像するまでもないでしょう。

 「常識」には、客観性などありません。
 「常識」や、その説明としての「一般的な知識」、「共通の知識」というのは、自分勝手な思い込みから考え出された、幻想に過ぎないのです。
 そして、皮肉なことに、単なる思い込みに過ぎない「一般的な知識」や「共通の知識」という幻想だけは、一般的で共通なのです。

 ひとりひとりが、固有の「常識」を持っています。
 あの人の「常識」この人の「常識」、あっちの人の「常識」、それをいくつも知っていくことが、人間の成長と言えるのではないでしょうか。

 夫婦なら、同じ家族なら、同じ地方に住んでいたら、同じ国に住んでいたら、この辺までは、ある程度「常識」というものを理解し合えると思います。
 しかし、国籍が違い、使う言葉が違い、思想が違えば、お互いの「常識」を理解し合うことは、とても大変なことです。

 「常識」は、理解し合わなければ、まったく意味を持ちません。

 やたらと、「常識」を連発する人は、ただの権威主義者(いばってばかりいる人のこと)に過ぎません。
 自分の判断のしっかりした基準や根拠を持たないくせに、「おれ様は偉いんだ。おれ様の言う通りにしろ」と、下の立場にいる人たちにいばり散らしている、くだらない人間なのです。






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