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ball 子供に「かわいそう」と言うのは精神的な虐待 ball



 今回のテーマは、子供に「かわいそう」と言ってしまうことが、実は、精神的な虐待と同じなんだ、ということです。

 たとえば、目の前で、子供が転んでケガをしてしまった場面を考えてみましょう。
 「痛いよう・・・痛いよう・・・」
 痛がって泣いている子供に対して、「かわいそう」だと感じるのは、誰しも、当然のことでしょう。さらには、「おお、かわいそうに」と子供に対して手を差し伸べるのも、ごくごく自然のことのように思われます。

 でも、よく考えてみてください。この場面で必要なのは、「かわいそう」という言葉でも、ただ単に手を差し伸べることでもありません。
 まず、ケガの様子を観察して、必要な措置をとらなければなりません。もし、大怪我だったら、すぐに応急手当が必要になります。
 骨折をしているようでしたら、下手に動かさずに、救急隊などの専門家に任せる必要があります。
 こうした迅速で的確な判断と行動が、ケガをしている子供にとって、一番必要なことなのです。

 近年増え続けている親の離婚や自殺は、子供の精神にとって、非常に危機的な状況を生み出してしまいます。
 親を突然失った子供に対して、「かわいそう」だと感じるのは、当然のことでしょう。その子供が身近な存在だった場合には、「おお、かわいそうに」という言葉を発しながら、いろいろと助けてあげたくなるでしょう。
 また、「かわいそうな子供」を、つらいことを忘れさせようと思いっきり甘やかしたり、行楽に連れ出したりしたくなることもあるでしょう。

 しかし、こんな場合でも、その子供に対して「かわいそう」という言葉をやたらと発したり、過度に甘やかしたりすることは、決していい結果を生み出しません。

 生まれつき、または事故や病気によって、心身に障害を持っている人たちがたくさんいます。
 このような人たちに対して、「かわいそう」だと感じるのは、人として、当然のことだと思います。特にそれが子供だった場合には、なおさらでしょう。

 しかし、やはりこの場合でも、「かわいそう」という言葉をやたらと発したり、過度に保護的な態度をとることは、いけないことなのです。
 心身に障害を持つ人たちが最も嫌うのは、「かわいそう」と言われることであり、「特別な扱い」をされることです。
 なぜなら、「かわいそう」という言葉や態度は、その人たちの人格そのものを否定することになるからです。

 ここで少し、「かわいそう」という言葉について考えてみましょう。
 人は不幸な状況に陥っている他人、特に子供に対して、どうして「かわいそう」という感情を持つのでしょうか。

 これは、少し考えてみればわかるのですが、自分がその人と同じような状況に陥った場合を想像できるからです。そのつらさや悲しさ、痛みを自分のものとして感じることができるから、「かわいそう」という感情が生まれるのです。
 さらに、相手が子供の場合には、母性本能や父性本能、幼少期のいろいろな記憶も刺激され、より強く感じるようになります。
 これが「共感」というものです。
 この「共感」は、「相互扶助(助け合い)」の精神を生み、誰もが住みやすい社会の実現に、なくてはならないものです。

 しかし、「共感」という感情を持てない人もいます。
 心理的な「葛藤」が強く出ていて、精神的に疲労している人です。いろいろな面で窮地に追い込まれているときにも、精神的余裕のなさから、「共感」ができません。
 人間は誰でも、自分の抱えた問題が多くなったり大きくなったりすると、ほかの人のことまで手が回らなくなってしまうものです。仕方のないことで、誰にでも起こりうることだと思います。

 一番困るのは、「共感」しているように見えて、実は「投影」「同一視」という心理的メカニズムが働いているときです。
(「投影」と「同一視」につきましては、この前のコラム、「防衛機制ってなあに?」で、詳しく説明しています。ご参照ください)

 たとえば、幼少期に親などから愛情が得られなかった場合を考えてみましょう。
 子供は、「もっと甘えたい」「私をかまって」「寂しい」というような感情や思考を持ちながらも、それがかなえられないとなると、しかたなく「抑圧」することになります。
 子供らしい感情や思考を「抑圧」すると、変に大人びた子供となってしまいます。これがよく聞く「アダルト・チルドレン」ですね。

 それでも、成長段階で愛情にあふれた人と接することができれば、「抑圧」された感情が満たされ、「抑圧」そのものが解消されます。
 しかし、「抑圧」されたまま成長してしまった場合、いろいろな問題が生じてきます。
 この「抑圧」された子供のときの感情や思考を、ジョン・ブラッドショーは、「インナー・チャイルド」と名づけました。ベスト・セラーとなった本なので、読まれた方も多いと思います。

 さて、「抑圧」された子供のときの感情や思考は、そのときの自分と同じような境遇にある子供たちに「投影」されやすくなります。
 これが、不幸な状況に置かれた子供に対して、「かわいそう」を連発してしまう大人の心理です。
 このような大人たちは、目の前の不幸な子供に対して、「かわいそう」だと感じているわけではありません。その子供を通して、「抑圧」している幼少期の自分自身を見て、「かわいそう」だと感じているのです。

 言い換えれば、不幸な子供のことなど、どうでもいいのです。あくまで、「かわいそう」なのは幼少期の自分自身であり、手をさしのべたいのも、自分自身なのです。

 したがって、実際の子供にとって一番必要なことができません。ただただ「おお、かわいそうに」と言って、手をさしのべるだけです。
 ケガをして痛がっている子供に対しても、すぐに適切な処置ができません。幼少期の自分自身がして欲しかったことを、まず最初にしようとします。
 たとえば、抱きしめて慰めたり、ぼうっとそばにいるだけだったりします。

 そして、抱きしめてもらったり、慰めてもらって、安心して甘えてくる子供に対して、自分自身を「同一視」します。
 つまり、幼少期の自分自身がして欲しかったことを、不幸な状態の子供にしてあげることによって、幼少期の自分自身を満足させようとするわけですね。
 ここで大切なのは、実際の子供の存在は、無視されているということです。

 では、このような人は、突然親を失った(大切な存在を失うことを「対象喪失」などと言います)子供に対しては、どんな行動をとるでしょう。
 まずは、幼少期の自分自身がして欲しかったとおり、「かわいそう」という言葉を投げかけるでしょう。そして、その子供を、思いっきり甘やかしたりするでしょう。

 子供の方も、甘える対象ができて、表面的には、元気な状態になると思います。
 そんな子供の変化に「同一視」することで、幼少期の自分自身を、かりそめの満足に導くわけですね。

 しかし、どんなに甘やかされても、親を失った悲しみが、消えるわけではありません。ことあるごとに泣いたり、わめいたり、押し黙ってしまったりと、「悲しみを乗り越えるつらい道のり」が現れてきます。
 こんな子供の様子を見ると、その子供に幼少期の自分自身を「投影」している大人は、黙っていられなくなります。
 「かわいそう」という言葉とともに、子供が楽しめるものを買ってあげたり、行楽に連れ出したりして、悲しみを忘れさせる行動をとってしまいます。子供が一時的にでも救われる状況に「同一視」していたいからです。

 このような大人は、一見、親切でいい人と見られることも多く、周りの人たちからも信頼されたり、感謝されたりしやすいでしょう。
 そうした周りの人たちのいい印象も、その人の過保護的な態度を助長してしまいます。

 人は、生まれながらにして、自分の心の傷の癒し方を知っています。
 もちろん、ひとりでは心の傷を癒せない場合もあります。でも、そんなときでも「共感」してくれる人がいれば、一緒に心の傷を癒すことができます。

 悲しみを乗り越えるには、泣いたり、わめいたり、押し黙ったりと、激しい感情の表出やゆったりとした思考が必要です
 こうした方法は、放っておいても、自然と行われるものです。
 そんなとき大切なのは、「悲しみを乗り越えるためのつらい道のり」を、「共感」しながら、一緒に歩んでくれる大人の存在です。
 この、「共感」しながら一緒に不幸を乗り越えるということが、「カウンセリング」や「心理療法」の本質でもあるわけです。

 しかし、「投影」と「同一視」による「見せかけの共感」は、心の傷を癒すという働きを妨害してしまいます。
 大人の自己満足的な「見せかけの共感」で、心の傷を癒すという作業を妨害された子供は、一生心の傷に苦しみ続けなくてはなりません。

 思春期には、誰でも心が不安定になるものです。もし、大きな心の傷を抱えたまま思春期を迎えたとすると、非常に危険な状況に陥る可能性が高いのです。
 子供に対して、「かわいそう」と何度も言ったり、過度に保護的な態度を取ることは、「精神的な虐待」と同じことなのです。

 近年、思春期に入った子供たちが信じられないような事件を起こし、大人たちを愕然とさせるということが、何度もありました。
 このような子供たちの生育歴を見ると、やはり「かわいそう」で育てられていることが多いように見受けられます。
 「見せかけの共感」は、本当に罪深い行為ですね。

 もっと身近な例で見てみましょう。
 ケガや親を失うといった極端な例ではなくても、「見せかけの共感」は、子供の心に有害な作用を及ぼします。

 たとえば、勉強が大好きで、いつも楽しそうにいろいろな本を読んだり文章を書いたりしている子供がいたとしましょう。
 このような子供は、そのまま育てば、社会で活躍できる優秀な人材に育つ可能性が高いと言えます。

 ところが、ここで「見せかけの共感」をする大人が現れ、この子どもに「勉強ばかりしていて、かわいそう」などと感じた場合を考えてみましょう。
 このような感じ方をする大人というのは、幼少期から勉強が嫌いで、勉強ということに対するいろいろなつらい思いを味わっていると考えられます。
 たとえば、大嫌いな勉強を強制されたり、成績が悪いことをしかられたり、そんな経験が続いていたのでしょう。

 そうしたつらい思いを「抑圧」しているので、勉強をしている子供を見ると、「抑圧」している当時の自分自身を「投影」してしまいます。

 あとは、その子供に対して、勉強することのくだらなさを次々と話し、「勉強なんてしなくていい」「もっとほかに楽しいことがたくさんある」などと、勉強することを否定し続けるでしょう。
 つまり、「抑圧」している幼少期の自分自身が、もっとも言って欲しかったことを、その子供に話すわけですね。
 そうして、その子供が勉強嫌いになり、勉強以外のことに楽しさを見つけられるような変化を導き出します。そして、その変化の過程に対して「同一視」が行われ、「抑圧」した幼少期の自分自身を満足させるのです。

 このような大人というのは、けっこうよく見かけられます。
 その子供にとっても、社会全体にとっても、大きな損失だと考えられます。
 このように、「投影」と「同一視」から起こる「見せかけの共感」は、周りの人間に害悪をもたらす、と考えていいでしょう。

 子供の立場からすると、「かわいそう」と言われ、保護的な態度をとられると、その人が自分にとって大切な人だと感じてしまうでしょう。その人を慕うようになる場合も多いと思います。
 しかも、子供自身の境遇について、「自分はかわいそうなんだ」と感じるようになってしまいます。
 「自分はかわいそう」という感情は、「自己否定」や「自己蔑視」につながります。
 結局、甘やかしてくれる大人に感謝しながら、「自己否定」や「自己蔑視」を「抑圧」し、神経症的な苦しみを味わい続けることになってしまうでしょう。

 幼少期の「抑圧」は、非常に多くの人が経験していることです。
 したがって、不幸な境遇にいる子供に対して、「かわいそう」と強く感じ、過度に保護的な態度をとりたくなる人も多いと思われます。

 「投影」と「同一視」、そこから発生する「見せかけの共感」は、すべて無意識的に行われるので、自分では気づくことができません。
 自分自身の感情のおもむくままに、「かわいそう」と言って、子供に対して過度に保護的な態度をとることは、大人として慎むべきことです。
 その子供にとって、どんなことをしてあげるのが一番いいのか、それをよく考えてから子供と接しないと、精神的な虐待と同じことをしてしまうかもしれないのです。






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