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ball メサイア・コンプレックスと新興宗教 ball



 「メサイア・コンプレックス」という心理学や精神分析の用語があります。
 最近の心理学ブーム(大学の心理学科の人気がすごいらしいですね)の影響もあるのでしょう。以前と比べて、ずいぶんいろいろな場面で聞いたり目にしたりする機会が増えました。

 しかし、この「メサイア・コンプレックス」も、以前のコラムでお話しした「劣等感」や「ナルシシズム」と同様、ハッキリとはわかりにくい言葉となってしまっているようです。

 「メサイア・コンプレックス」の「メサイア」というのは、「メシア」つまり「救世主」のことです。
 このことから、「メサイア・コンプレックス」は、「人を助ける」とか「人を救う」ということに関する「コンプレックス」だということがわかります(「コンプレックス」の意味につきましては、以前のコラム「劣等感とコンプレックスの違いって?」をご参照願います)。
 ところが、実際に「メサイア・コンプレックス」という言葉が使われている場面や文脈を見ると、「コンプレックス」の意味が無視されていることが多いようです。

 ここで「メサイア・コンプレックス」という言葉が、実際にどのような使われ方をしているのか、ちょっと整理してみましょう。

1.ボランティア活動や慈善行為をする人の心理状態
2.俗に言う「お節介な人」の心理状態
3.「ヒロイズム」の別の表現としての使い方
4.教祖や宗教家がほかの人を助けたり救ったりする心理状態
5.ありがた迷惑だと感じられる行為をする人を批判的に言う言葉
6.説教じみた話をする「まじめ人間」の心理状態
7.親切な人すべてが持っている一般的傾向

 みなさんのなかにも、この7つの例と同じような使われ方を聞いたり見たりした方が、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
 実は、この7つの使い方は、「メサイア・コンプレックス」の本来の意味からすれば、ちょっとずれていると言わざるをえないのです。

 「メサイア・コンプレックス」も、ほかのコンプレックスと同様、無意識の強い情動との結びつきがある、一種の「神経症的心理」だと考えることができます。
 つまり、「抑圧」「葛藤」が関係しているわけですね(「抑圧」と「葛藤」、「神経症」につきましては、以前のコラム「神経症と不安障害について」をご参照ください)。

 それでは、「メサイア・コンプレックス」の心理的メカニズムについて、いくつかの「防衛機制」の用語を使って、説明を試みてみましょう(「防衛機制」とその用語につきましては、以前のコラム「防衛機制ってなあに?」をご参照ください)。

 たとえば、「自分は不幸だ」という自己否定の感情を「抑圧」している場合、「自分は幸せだ」という「反動形成」としての強迫的思いこみが発生することがあります。
 このような人が、「幸せな人は不幸な状態の人を助けて当然だ」といった「世間一般の価値観」に振り回されたとしましょう。
 そうすると、「自分は幸せだ」という強迫的思いこみをより強固にするために、ボランティア活動や慈善事業に不自然なまでに熱中する、ということになりがちなのです。

 今度は、「誰かに助けて欲しい」、「つらくて苦しい」といった感情を「抑圧」している場合を考えてみましょう。
 このような人は、助けを必要としている人や苦しんでいる人を見ると、「抑圧」している感情を「投影」しやすくなります。
 「投影」が行われると、「抑圧」した自分自身の感情を満足させるために、その人を助けたり苦痛から救ってあげたりしたくなります。
 そして、実際にその人を助けたり救ったりすることで、その人の変化に対して「同一視」が行われ、「抑圧」された感情をかりそめの満足に導くわけです。

 このように、「メサイア・コンプレックス」というのは、「抑圧」された強い感情が原動力となって、結果として、人を助けたり人を救ったりといった行動が起こることを意味します。
 その主なものは、「反動形成」や「投影」、「同一視」ですが、「補償」「逃避」が原動力となる場合もあります。

 どの心理的メカニズムの場合でも、もともとが神経症的心理に発しているため、いろいろな面で問題が起きやすくなります。

 たとえば、ボランティア活動に熱中するあまり、家族やまわりの人に大きな迷惑をかけても本人が全然気にしない、といったことも起こります。
 また、どうしても強迫的な行動になりがちなので、ほかのボランティアたちとケンカになったり、親切の押し売りになったり、ボランティア活動に積極的でない人を侮辱したりすることもあります。

 「メサイア・コンプレックス」に突き動かされて、医師などの職業を選ぶ人もいます。
 このような人は、熱心に医療技術を身につけますし、患者に対しても親切なので、優秀な医師となる場合が多いでしょう。
 しかし、ちょっとした失敗や、医療行政や病院運営などに対する疑問から、突然うつ状態に陥ったり、医療行為に興味を感じなくなったりする人がいます。まったく医療行為ができなくなる人もいます。

 実際、このような医師がカウンセリングや心理療法を受けると、「メサイア・コンプレックス」に突き動かされていた、と気づく場合が多いのです。
 自分自身の「メサイア・コンプレックス」に気づき、医師を続けること自体が無意味に感じ出し、結局は辞めてしまう、という人もいます。
 やはり、医療行為のように重責を負わなくてはならない仕事の場合、その仕事に対する愛着心がないと、続けられない場合もあるのでしょう。

 ただし、「メサイア・コンプレックス」の場合、社会的価値の高い行動を続けることになるので、神経症的心理が癒される可能性も高くなります

 困っている人を助けたり、苦しんでいる人を救ったりしていれば、「感謝される」というすばらしい体験をする機会が増えてきます。
 「感謝される」という体験が積み重なれば、自分自身の存在の肯定につながってきます。
 また、自分は社会的価値の高い行動をしているという「自信」も、自分自身の存在の肯定につながってくるでしょう。

 そうして、自分自身の存在を、確かな実感を持って肯定することができれば、「抑圧」された自己否定や自己蔑視の感情は、解消されると考えられます。

 よく「情けは人のためならず」(この言葉、誤解している人が多いようなので、一応説明しておきます。本来の意味は、「他人に親切にすると、巡り巡ってその親切が自分に返ってくる。だから、他人に親切にすることは、結局は自分のためになることなんだ」という意味です)と言いますが、まさに自分自身の存在の肯定につながってくるわけです。

 「メサイア・コンプレックス」に突き動かされて始めたボランティア活動であっても、医療行為であっても、その行動の価値が変わるわけではありません。
 多少は神経症的心理による問題があったとしても、それをうまく乗り越えることができれば、神経症的な不安や苦痛から解放される可能性が高いのです。

 さて、このような「メサイア・コンプレックス」ですが、もっとも問題となるのは、やはり新興宗教を中心とした「宗教問題」でしょう。

 「メサイア・コンプレックス」と「宗教問題」などと言うと、「メシア」(救世主)との連想から、「教祖」自身の心の問題だと感じる人が多いと思います。
 確かに「教祖」のなかには、端から見ても、「メサイア・コンプレックス」に突き動かされていると感じられる人もいます。

 しかし、「教祖」自身が「メサイア・コンプレックス」にとらわれている状態では、効率的な布教活動もできないでしょうし、組織的な活動もそんなには起こらないでしょう。
 したがって、教団が変に巨大化したり、カルト化して凶悪化したりする危険性はないと考えられます。

 新興宗教で、「メサイア・コンプレックス」の問題が出てくるのは、主に信者の方です。
 それをこれからお話ししましょう。

 新興宗教の一番の特徴は、一般の信者が勧誘活動をする、というところでしょう。
 一般の信者というのは、そんなに宗教的な知識があるわけではありません。また、信仰という行為そのものに関しても、深い理解があるとは言えないでしょう。
 それなのに、自分が信仰している宗教に、たくさんの人を入信させようとするわけです。

 これって、ちょっと考えれば、おかしいことがわかりますよね。
 たいした知識も理解もないはずなのに、どんな人に対しても、自分が信仰している宗教が一番合っていると判断してしまうのですから。

 もちろん、悪質なカルト教団のように、信者を「洗脳」し、「マインド・コントロール」して、勧誘活動をさせる場合もあります。

 しかし、比較的まともに見える新興宗教でも、一般の信者が積極的な勧誘活動を行うケースは、とても多いと感じられます。
 これはどうしてでしょうか。
 実は、このような信者の心理状態こそ、「メサイア・コンプレックス」だと考えられるのです。

 たとえば、新興宗教に入信する場面を考えてみましょう。
 まずは、その人自身の興味や信者からの勧誘などで、その教団を訪れることから始まります。教団は、もちろん大歓迎です。

 そして、その人の悩みや、その人が宗教に何を求めているかなどを、熱心に聞き出します。こんな場合、その場にいる信者全員が共感的な態度で、じっくりと聞き出す場合が多いようです。
 後は、集団療法や心理療法の手法を使って、その人が開放感を得られるようにし向けます。

 新興宗教での心理療法的な手法は、「転移性治癒」の段階までで終わることが多いと思います(「転移性治癒」に関しましては、以前のコラム「感情転移と転移性治癒」をご参照ください)。
 それでも、大きな開放感が得られますので、その教団を信じてしまう、と言うわけです。特に、「身体表現性障害」などで、劇的な治癒が起きた場合、「奇蹟」が起きたと感じることが多くなります(「身体表現性障害」と「奇蹟」に関しましても、以前のコラム「感情転移と転移性治癒」をご参照ください)。

 さて、入信した信者は、大勢の仲間のなかで、いろいろな行事や奉仕活動などをするようになります。そして、大勢の仲間のなかで、一緒に行動し続けると、確かな「所属感」を実感できるようになります。
 つまり、以前のコラム「劣等感とコンプレックスの違いって?」でお話しした「所属感の欠如」と、全く逆の状態ですね。
 しかも、新興宗教の教祖は、カリスマ的要素を持つ人が多いので、教祖と一緒にいるだけでも幸せに感じたり、楽しく感じたりすることも多いでしょう。

 しかし、入信後、精神的な悩みや宗教的な疑問を感じたとしても、ハッキリとした回答がなかなか得られません。ただ信者として、教団の活動に参加しているだけで救われる、というような説明ばかりが返ってくるようになります。

 これは、ある意味仕方のないことかもしれません。
 多くの新興宗教の教義は、いろいろな既成宗教の教義を、教祖や教団の都合のいいようにつぎはぎにして作られています。したがって、どうしても矛盾が出てきてしまうのです。

 その矛盾は、ことあるごとに疑問として、感じられるようになります。
 しかし、教祖に聞いても、教団の幹部に聞いても、きちんとした答えが返ってくるはずはありません。もとから矛盾しているものを、矛盾なく説明することなど、できるはずはないからです。

 こんなことから、入信してしばらく経つと、精神的な閉塞感を感じるようになります。
 「転移性治癒」で、劇的な治癒が起きた人でも、また同じ症状に戻ってしまうこともあります。
 心理療法なら、「転移性治癒」が起きてからが、本格的な治療となるわけですが、新興宗教の場合、その後の治療など最初から考えられていません。

 一度信者になってしまうと、このように、いろいろな閉塞状況が生まれます。
 信者たちは、閉塞状況に陥ると、「もっと救われたい」「自分は救われていない」という感情を持つでしょう。

 教団は、そうした不満に対して、「信仰が足りない」とか「教祖へ近づくためには、真実の教えを広めることだ」といった話をして、教団の外へ目を向けさせることで、押さえ込もうとします。

 信者たちは、心の奥では、「もっと救われたい」とか「自分は救われていない」という感情を持ちながらも、無理矢理それを「抑圧」させられてしまうのです。
 これが新興宗教の信者たちの、「メサイア・コンプレックス」の原因だと考えられます。

 「もっと救われたい」の場合には、その「抑圧」した感情を、身近にいる困っている人や問題を抱えている人に「投影」します。
 そして、その人を教団に入信させ、「転移性治癒」の段階にいたるまでの課程に「同一視」するわけです。
 「自分は救われていない」という場合には、「反動形成」として「自分は救われている」という強迫的な思いこみを強固にするために、ほかの人を勧誘するようになります。

 新興宗教の信者の場合、メサイア・コンプレックスが癒されにくくなります
 なぜなら、「感謝される」というすばらしい体験を得られないからです。「感謝される」のは、あくまで教祖または教団です。したがって、自分自身の存在の肯定がなかなかできないのです。

 このような、いつまでたっても癒されない「メサイア・コンプレックス」が、異常に見える勧誘活動の原因だと考えられます。
 新興宗教の信者獲得のメカニズムは、人間心理を利用した人集めの方法として、とてもよくできているというわけです。

 信仰によって、自分自身が救われたという確かな実感が得られたような人は、勧誘活動自体が必要なくなるはずです。
 「メサイア・コンプレックス」もなくなっていますし、救われたいと感じているような人たちが、惹きつけられてやってくると考えられるからです。

 つまり、勧誘活動ばかりしているような人は、いつまでたっても癒されない「メサイア・コンプレックス」に突き動かされ続けているというわけです。
 だからこそ、強迫的に勧誘を続けてしまうのです。






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