Psystory

ball 第3節 サイストリーの思想 (言葉・経験・認識、他者である言葉、存在の希薄化)



言葉と経験
 私たちは、ふだん、なにも考えずに言葉を使っています。
 しかし、いきなり「言葉とは、なんですか?」と聞かれて、すぐに答えられる人は、決して多くはないでしょう。

 実際、これほど身近なものであっても、言葉について深く考えた経験のある人は、そんなに多くはないと思われます。

 もちろん、哲学者や言語学者、思想家といった人たちは、言葉についていろいろと考えています。
 しかし、ふつうに暮らす私たちが、言葉について持っているイメージというのは、せいぜいが「コミュニケーションの手段」といった程度のものでしょう。

 ところが、哲学や言語学を少しでもかじると、言葉というものの性質がまったく変わって見えてきます。
 言葉というのは、実は、私たちの存在のもっとも大きな基盤であるということが、わかってくるのです。

 「コミュニケーションの手段」というのは、言葉のほんの一面を表しているにすぎません。
 私たちは、なにかを理解するときはもちろんですが、なにかを見たり聞いたり味わったりするときも、実は、言葉を必要とします。

 たとえば、仕事をしながら、コーヒーを飲んだとしましょう。
 あまりに仕事に集中していると、コーヒーを飲み終わっても、そのコーヒーの味がどんなものだったのか全然思い出せないということがよくあります。
 このような場合には、言葉による認識をしなかったために、経験として成立しなかったのです。

 コーヒーを飲んだときに、「おいしい」と声に出して言うと、コーヒーのおいしさが認識され、初めて経験となります。
 実際に声には出さなくても、心のなかで「おいしい」と言葉で認識すれば、同じように経験となります。

 ところが、仕事などに集中しきっていて、言葉による認識を忘れてしまうと、経験にはなりません。

 たとえば、仕事や会話に夢中になっていると、無意識のうちにコーヒーを飲み終わってしまい、コーヒーカップを口に運んだとき、空になっていて驚くことがあります。
 これは、言葉による認識をしなかったため、コーヒーを飲んだという経験そのものが失われてしまったのです。

 とても気になることがあり、「心ここにあらず」という状態のときには、大好きな食べ物を食べても、まったく味がわかりません。
 それはやはり、言葉による認識が行われないため、おいしいものを食べたという経験が成立しないのです。

 もっとひどいときには、なにを食べたかさえ覚えていません。あげくには、食事を摂ったことさえ忘れてしまう場合もあります。

 このような言葉による認識は、前頭前野が行っています。
 経験が失われるようなときは、前頭前野が一つのことだけを処理していて、コーヒーを飲むことや、好物を食べることの処理をしなかったのです。

 これと同じような状態は、何度もお話しした不快の情動発生処理のときにも起こります。
 この場合には、大脳辺縁系以下の下位の脳が、前頭前野の活性を落としてしまうためですが、経験が成立しないというところは、同じようなものだと考えてもいいでしょう。

 経験とは、言葉による認識から始まります。その言葉による認識を、首尾一貫性を持たせてまとまった記憶としたものが、経験となるわけです。

 サイストリーでは、自分の過去を言葉で記述していきます。
 そのときにパソコンのワープロソフトを使うのは、言葉によって再認識し、経験を組み上げていくためだと言えます。

 そして、それらの経験を時間の進行どおりに、首尾一貫性を持たせて記述していけば、心の歴史ができあがるというわけです。

 前章の第4節で、存在の根拠は心の歴史だとお話ししました。
 その心の歴史の構成単位は、経験です。さらに、その経験を形づくるのは、言葉による認識です。

 したがって、言葉による認識が、存在の根拠である心の歴史の最小単位だということになります。

言葉は他者だった
 さて、人間は誰でも、生まれたばかりのときには、言葉を持っていません。もしそのまま言葉に接しないで育つと、言葉が理解できなくなってしまいます。

 非常に有名な例なので、ご存じの方も多いと思われますが、狼に連れ去られ、そのまま狼に育てられた子供が発見されたことがあります。
 彼らは、言葉のない環境で育てられたため、発見された当時には、言葉がまったく理解できませんでした。

 もちろん、通常の環境では、両親やまわりの人たちの言葉を聞きながら、少しずつ覚えていくことになります。
 そうしてだんだんと言葉を習得していき、やがては、自由に使えるようになっていきます。

 しかし、言葉が最初から自分自身のなかにあったわけではありません。

 もし、言葉が最初から遺伝情報として親から子へ伝わっているとしたら、言葉のない環境で育ったとしても、言葉が自然と使えるようになるはずです。
 ところが、そうはならないことは、先ほどの狼に育てられた子供や、そのほかのさまざまな研究からわかっています。

 つまり、誰でも最初は、自分以外の人間である他者の言葉を、そのまま取り入れていくしかないのです。
 その意味では、言葉というものは、自分自身ではなく、他者そのものだと言えるでしょう。

 やがて子供は成長し、言葉で自分自身を表現するようになってきます。
 しかし、自分自身を表現するといっても、そのとき使う言葉は他者そのものです。
 そうなると、言葉で表現した自分自身というのも、もとをただせば、自分自身ではない、他者だということになってしまいます。

 自分自身の存在の根拠は心の歴史です。そして、心の歴史を形づくる最小単位は、言葉による認識です。
 その言葉が他者であるということになると、結局、自分自身というのは、他者から組み上げられた実体のない幻想のようなものだ、ということになってしまうでしょう。

 実は、自分自身が他者から組み上げられたものにすぎないというのは、当然といえば当然のことなのです。
 自分自身の存在の根拠をどんどんさかのぼっていけば、やがては、必然的に他者に行き着きます。

 それでは、自分自身の存在の根拠とは、いったいなんだったのでしょう。

 たとえば、音楽のメロディーについて考えてみましょう。
 一つのメロディーは、多数の音が連なってできています。それが連続して演奏されたり歌われたりすると、メロディーとして認識することができます。

 しかし、メロディーの実体というのは、ある波長を持った一つ一つの音にすぎません。その音を、あるパターンで連ねていくと、初めてメロディーとなるわけです。
 そう考えると、メロディーというのは、あくまで連なりのパターンにすぎず、なにかの実体があるわけではないことがわかります。

 それでも、メロディーの存在を疑うような人はいないでしょう。
 たとえば、「さくらさくら」のメロディーを聴けば、日本人ならほとんどの人が「さくらさくら」のメロディーだと認識できるはずです。

 ところが、メロディーの実体である音を、いくつかバラバラに聞いたとしても、なんの意味も認識することはできません。
 言い換えれば、実体どおりに、ただの音としか聞こえないのです。

 このメロディーを心の歴史だと考え、さらに、実体としての音を他者である言葉だと考えれば、自分自身の存在というものが、ご理解いただけるのではないでしょうか。

存在の希薄化
 心の歴史の最小単位は、他者である言葉による認識です。
 そして、他者である言葉による認識があるパターンで組み上げられたものが経験となり、さらに心の歴史となるわけです。

 自分自身の存在の根拠である心の歴史には、実体はありません。心の歴史とは、あくまで、他者である言葉による認識の、連なりのパターンにすぎないのです。

 それでも、その連なりのパターンが真実の歴史からできていれば、きちんとしたメロディーになります。
 そのきちんとしたメロディーこそが、自分自身の確固とした存在の根拠となり、そうして初めて、自分自身の存在そのものを確信できるわけです。

 ところが、偽りの歴史を存在の根拠にしていると、きちんとしたメロディーができません。
 ところどころ抜け落ちていたり、音階が変わっていたり、一部に違うメロディーが紛れ込んだりしています。これでは、演奏してみても、どんなメロディーなのかハッキリとはわからないでしょう。
 つまり、自分自身の存在が希薄化してしまうのです。

 特に、大脳辺縁系の記憶が大量にある場合には、偽りの歴史の程度がひどくなり、ほとんどメロディーとは言えないものになってしまいます。そうなると、自分自身の存在の希薄化も、さらに進んでしまいます。

 それは言い換えれば、自分自身が、心の歴史の最小単位の他者である言葉そのものに分解してしまうということです。
 つまり、自分自身の存在が崩壊して、他者の寄せ集めにすぎないような状態に陥っているわけです。

 この状態がひどくなると、なにをしていても、現実感を持てなくなります。自分の体が他人のもののように感じ、自分が話したことも、他人が話しているように感じてしまいます。
 離人症と呼ばれる状態です。

 存在の希薄化が極限まで進んだ状態というのは、別の見方をすれば、偽りの歴史でさえも、まとまりを保てなくなった状態だと言えます。さらに別の見方をすれば、「歴史を失った状態」にも、限りなく近いでしょう。

 前章の第4節でお話ししたとおり、「歴史を失った状態」とは、存在の根拠がなくなり、その人の存在自体が消滅したのと同じような状態です。
 つまり、存在の根拠としての心の歴史が分解していればいるほど、歴史を失った状態に近くなり、存在自体がどんどん希薄化してしまうということなのです。

 離人症までいかなくても、存在の希薄化は、さまざまな問題を引き起こす元凶となります。

父親の存在の希薄化がもたらす問題点
 現代は、父親不在の時代だと言われています。
 もちろん、父親がいなくなったわけではありません。父親の存在が希薄化してしまったのです。

 実際の父親は、今も昔もそんなに変わりありません。
 ただ、昭和の半分くらいまでは、社会全体が父親に対して、確固とした存在感を与えていました。それが与えられなくなったため、現代の父親の存在が希薄化してしまったと考えられます。

 このことは、特に子供への教育や躾の面で、問題を生み出しているように見えます。

 たとえば、子供を叱るという行為を考えてみましょう。
 父親に確固とした存在感がある場合、子供の心のなかに、自分は悪いことをして叱られたという確かな実感が生まれます。
 この実感こそが、やがては道徳観や倫理観となって、子供の心のなかに、しっかりと根を張っていくと考えられます。

 ところが、父親の存在が希薄化していると、叱られた子供の心のなかに、自分は悪いことをして叱られたという実感が生まれません。なにか空々しい、空虚な感覚が残るだけです。

 存在が希薄化すると、少し前にお話ししたとおり、他者の言葉の寄せ集めのような状態になってしまいます。その他者の言葉がそのまま発されてしまうため、その人自身の存在が言葉に乗ってきません。
 つまり、言葉に気持ちがこもってこないのです。

 父親自身も、自分の存在を確信できないため、子供に対してハッキリと禁止の命令を出せません。
 本当は、「お父さんがダメだということは、絶対にダメなんだ」とハッキリ言えば済むことなのですが、「どうしてダメなのか」という理由が必要だと考えてしまいます。

 このような父親は、子供に対して禁止の命令を出す代わりに、くどくどと論理的に説得し続けることになります。
 しかし、子供にとっては、そんな論理的な説得など、すぐに理解できるはずもありません。ただ父親の要求に従って、うなずき続けるだけです。

 これは、禁止の命令を出すべき者としての、責任からの逃避です。

 父親が、他者そのものの言葉を使って説得し、子供がそれで納得したとしても、「どうしてダメなのか」という理由を、他者と子供とのあいだで承認し合ったことになってしまいます。そこに父親は存在しません。

 つまり、この方法なら、父親が責任を負う必要がなくなりますし、父親の存在が希薄化していても、一応叱ることができるのです。

 こうしたことを、明白に表している言葉があります。
 「ほかの人もそうなんだ」、「ほかの人に笑われる」、「ほかの人の迷惑になる」、「そんなことをする人はいない」などの言葉です。

 父親がこのような言葉を使って子供を説得したとすれば、子供の心のなかに、禁止の命令を出す象徴的父親像ができあがりません。
 そうして育った子供は、反抗期を迎えたとき、自分自身を押さえつけることができなくなってしまうでしょう。

 たとえば、子供が禁止の命令に対して、反抗を試みた場合を考えてみましょう。
 父親に確固とした存在感がある場合には、子供はその存在感に圧倒され、反抗自体が難しくなってしまいます。そうして父親に従うしかないと感じ、反抗を止めざるを得なくなります。

 しかし、父親の存在が希薄化していると、簡単に反抗することができます。
 父親の方も、自分の存在に確信が持てないため、反抗されると、子供を説得するしか手がなくなります。そうして、他者そのものの言葉を用いて、責任から逃れようとするわけです。

 現代の子供たちが、陰湿ないじめや少年犯罪を起こしてしまう原因の一つには、このような父親の存在の希薄化があると考えられます。

 こうした状況を改善するためには、父親が確固とした存在感を取り戻す必要があるでしょう。
 しかし、ふたたび社会全体がそれを行うことなど不可能ですし、かえって望ましくありません。

 だいたいが、昭和の半分ぐらいまで、父親に確固とした存在感を与えていたのは、母親を中心とした女性たちでした。
 彼女たちが、自分たちの存在を犠牲にして、不自由、不平等に甘んじながら、父親の確固とした存在感、言い換えれば、父親の権威を支えていたのです。

 そうした事情を理解しないと、「昔はよかった」ふうの、単なる懐古趣味に終わってしまいます。
 よく言われる明治時代の強い父親像というのは、当時の社会が作り上げた、一種の虚像にすぎません。決して父親自身が、確固とした存在感を作り上げていたわけではないのです。

 やはり、父親自身が確固とした存在感を自らの手で作り上げなくてはなりません。
 そのためには、父親自身が、存在の希薄化の原因である偽りの歴史から自由になり、真実の歴史を紡ぎあげることがもっとも望ましい方法でしょう。

 その方法として、サイストリーの実践が、もっとも簡単で効果的だと思われます。

 ここまで他者である言葉と自分自身の関係について、現代の社会問題の一つである、父親の存在の希薄化にも触れながらお話ししてきました。
 ここまでのお話で、言葉が私たちの存在のもっとも大きな根拠であるということが、おわかりいただけたのではないでしょうか。

 心の歴史の最小単位である言葉は、根源的に他者です。
 したがって、不安定な偽りの歴史を心の歴史にしている限り、自分自身の存在が他者に分解して、希薄化してしまいます。そんな状態では、決して存在の確信は得られません。

 サイストリーは、その他者である言葉を使って真実の歴史を紡ぎあげ、自分自身の確固とした存在の根拠を作ります。
 その確固とした存在の根拠によって、初めて自分自身の存在が確信できるようになるのです。






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